“リアリティ” と “リアル” の違いとは?
山崎ナオコーラ×岡田利規

2004年にデビュー作『人のセックスを笑うな』で第41回文藝賞を受賞し、以来、長短編の小説やエッセイも人気を集めている作家の山崎ナオコーラ。2009年の秋に行われた『SPECTACLE in the Farm』のプログラムのひとつとして、岡田利規と朗読のセッションを行った彼女は、チェルフィッチュの作品に何を思うのだろうか。そして、小説家と劇作家という両方の顔を持つ岡田は、演劇と小説の共通点や違いをどのようにとらえているのだろうか。互いの作品を知る2人の対談を取材した。

岡田利規 (以下、岡田) : 『SPECTACLE in the Farm』では、それぞれが自分の作品と、相手の作品と、どちらのものでもない作品を読むということになって、僕はナオコーラさんの『手』という作品を読んだんですけれども、楽しい経験でした。若い女性と、頭も禿げかかってるような中年の男性との、恋愛――といっていいのかどうなのか微妙なんですが――の話なんですよね。

山崎ナオコーラ (以下、山崎) : 私は男の人の一人称の言葉で書いている作品もあるんですけど、女の人の方を選ぶんだって、少し意外でした。でも、岡田さんは女の人の言葉を読むのがすごく上手だと思いました。さすがだなって。

岡田 : 逆に、男の一人称言葉を読むほうが気恥ずかしいところがありますね僕は。書くときもそうですね。

― 岡田さんは女性の台詞も書かれるし、山崎さんは男性視点の言葉で文章も書かれます。そのときには、自分が違う性別になった気分で書かれているんですか?

岡田 : 半々かなあ。具体的に誰それをモデルにするというんじゃじゃないんですけどね、でも自分が知ってる女性の言葉づかいとか思考回路をブレンドしたものを使って、女性として書いているという感覚はありますよね。書くってどうしても演じる要素が入り込みますからね。でも僕は、たとえば女性がひとりでシャワー入るシーンとかは書いたことがなくて、たぶんこれからも書けないと思うんですけど、たぶんそれは自分がそれを知らないからですね。

山崎 : たしかにいま岡田さんがおっしゃったように、私も自分の周りにいる人から言葉を鍛えられてる感覚はあります。まわりの男性が話す言葉を聞いたり、何をするかを見ることで自分に備わってきた男性感覚みたいなものがあって、だから、逆に私は男の人のトイレやシャワーの様子も書いてしまう。そこが違うなと思いましたね。

岡田 : 僕は自分のことを、男性である、と積極的に定義づけてはいないんですよね。女だと思ってるわけでもないんですけどね。どうやら僕は自分のことを、女性ではない者、と思ってるふしがある。

山崎 : 私も、漠然と自分の性別に自信が持てないでいる気がしていたんですけど、それも“自分は男性ではない”という風に考えると、シックリきます。化粧しなければいけなかったり、女性らしい服装をすることに違和感はあるけど、自分は男性ではないから女性なんだと。もし自分が男性だったら、男性とざっくばらんに話したり、師弟関係になったりできたかもしれないと考えて、自分は男性ではないことにガッカリしたりもします。だから、男性言葉で「俺は」と書くのがすごく楽しい。書くことで得られる優越感が、そこにあるのかもしれません。

― 自分とは異なる性の人物を描くうえでのリアリティと、すごく結びつく話ですね。

山崎 : 小説はやっぱり現実とは違うものなので、“リアリティ”と“リアル”は違うんだな、と考えますね。小説でも演劇でもそうかもしれないんですけど、あるキャラがいたとすると、その動き方は、そのキャラの論理に反しない範囲での動きになりますよね。こういう設定で、こういう生活をしている人だから、ここでそういう行動をするはずはない、っていうことを考えたうえでドラマが描かれています。でも現実では、人がいっぱいいたら雲みたいに想像もできない動き方をするわけだから、そういう範囲内で動くわけじゃないですよね。

岡田 : リアリスティックに具象して見せることでリアリティが出るわけじゃなくて、リアリスティックなやり方じゃなくてもリアリティは生まれる、ということですね。ナオコーラさんの小説って、喩えると星座みたいな感じだと思うんですね。たとえば白鳥座だとしたら、白鳥の絵の輪郭があるわけじゃなくて、いくつかの点がポンポンポンと打たれていて、その全体が白鳥に見える、という感じ。ナオコーラさんの小説はその星座度が高いですよね。点と点のあいだをハッキリと線で結ばなくても、全体が見えてくる。それは演劇だとできないことですよね。

山崎 : たしかに、出せるリアルというのが、媒体によって違いますしね。岡田さんの『三月の5日間』を舞台で見たときと、小説で読んだときでは印象が違いましたし、朗読してみたときには、地の文がいいなと思ったんです。でも演劇では、小説にとっての地の文は何になるんですか?

岡田 : 舞台上にいろんなものが存在していること、その事実がそれに当たるんじゃないかと思いますね。その筆頭は役者ですね。それからセットがあります。セットがなくても、特にセットがない、という状態はあります。加えて、役者の行う身振りがあります。例えば、『三月の5日間』で六本木のあたりの地理を説明をするときに、(腕を前に出して、斜め下の方向に伸ばす動作をしながら)こういう身振りが出てくる。この動きによって、六本木ヒルズから西麻布のほうに下る坂道を伝えることができわけですね。小説だとそこを描写する必要があるけれども、演劇だと腕一本の動きでかなりのことを伝えられる。しかも、相当ダイレクトに伝えられる。演劇にとって役者の身体って、本当に重要なんですよ。少なくとも僕はすごくそう思ってます。