高嶺格×岡田利規
役者との“デモクラティックな関係”
高嶺格×岡田利規

現代美術家で演出家の高嶺格は、1993年から97年にかけてパフォーマーとしてダムタイプで活動してきたほか、2003年の『在日の恋人』から2010年の『スーパーキャパシターズ』までの個展や多くのグループ展で、映像や写真、インスタレーションなどの手法を問わずにさまざまな表現が注目を集めてきた。横浜美術館での個展『とおくてよくみえない』(1月21日~3月20日) を控え、横浜で新作の滞在制作をしている高嶺と岡田利規の対談を美術館の応接室で実施。チェルフィッチュのタイ公演と同じ劇場で1週間前に高嶺が演出した『Melody❤Cup』が上演され、バンコクでのニアミスも起こっていたという話題からスタートした。

岡田利規 (以下、岡田) : タイはおもしろかったですね。公演をした劇場がよかったですね。レジデントの施設も整っていたし、スタッフもとてもいい感じだった。僕はこれまでにアジアであまり公演ができなかったこともあって、それも嬉しかったですね。

高嶺格 (以下、高嶺) : 僕はもともとタイが好きだというのもあって、去年の夏にタイから5人のタイ人を呼んで、1か月かけて『Melody❤Cup』という作品を作ったのですが、信じられないぐらいにうまく行きました。

岡田 : どういう意味でですか?

高嶺 : たぶん、気の遣い方みたいなのが日本人と似てるんじゃないかと思うんです。言うところは言うけど、でもあまり言い過ぎると失礼かなという、そのへんの遠慮の感覚が似てて、お互いにとってストレスの少ない形を探りながらの時間だったんと思います。ただやはり言葉の問題はあって、最初に上演した場所が日本で、監督である僕も、照明や音響などのスタッフも日本人だったので、どうしても日本語中心で進めてしまって、話し合われた結果だけをタイ人に伝えることになっていたんですね。そのままタイ公演でも日本語中心で進めていたので、その部分でストレスを感じさせてしまったようで、反省しています。無意識の文化的ヒエラルキーみたいなのがあったのかなと感じました。

― 高嶺さんは、ご自身の奥さんとの関係をもとに手がけた作品《在日の恋人》などで、在日外国人への差別的な感情について問いかけていらっしゃいます。

高嶺 : そこにある権力構造みたいなものに、どうしても敏感になってしまうことはあります。意識しないと埋もれてしまうというか、あまり考えずに生きることも可能なので。そこらへんについてあまり意識していない人と一緒にいると、イライラするというか、ハラハラします。それはなぜかというと、無意識に、既存の権力構造に加担してしまうことになりかねないから。

― 岡田さんが2007年にワークショップを行って『奇妙さ』を手がけられたのと、高嶺さんが『Melody❤Cup』を制作されたのは、伊丹アイホールでの一連の企画でした。

岡田 : 僕のワークショップの翌年が高嶺さんだったんで、僕のときのリハーサルにもいらっしゃいましたね。

高嶺 : 扉を開けた瞬間のことを覚えています。リハーサル現場はすごい緊張感で、開けた瞬間、あ、ごめんなさいって感じだった。で、僕は隅っこで見てたんです。岡田さんは明確な方法論を持っていた。ある世界観を作るときの方法について、非常に的確な言葉で、具体的に指示をされている姿を見て、すごいなと思った。

岡田 : あのときはバリバリでヒエラルキーがあって、トップダウンだったんですよ。でも今はあの頃とだいぶ変わった気がします。チェルフィッチュの俳優の力がすごく付いてきたのが最も大きな理由ですけどね。だから役者にある意味、丸投げできるようになってきた。出す指示もどんどん概念的なものになってきた。逆に今だと、そういう風にトップダウンの関係しかできない人とはやれないな、と感じている部分もあります。

高嶺 : 僕は方法論がなくていつも手探りだから、岡田さんがすごいと感じるんですね。シナリオみたいなものを書こうとするんだけど、書けたことがなくて、ほとんど5秒ぐらいであきらめてしまいます。ベースとなるアイデアとか、シーンのイメージとか、キーワードがあるとか、それすら、リハーサルが始まるまで作れないんですよ。

岡田 : 似ているところがあります。例えば今回の作品についても、どのぐらいの年代の男なり女なりが何人いて、というのもないんですよ。だからそこからはキャスティングしてなくて、それよりも僕の稽古場での超マイナーな言葉を理解している人、というのが重要だったりします。それがわかれば、僕がこういうことをやりたいとなったときに、努力をして役者に伝えようとすれば伝わるので一緒にリハーサルで作り上げていける。やりたいことを伝えて、わかってきたことを反芻して、というのを同時並行で進めていけます。

高嶺 : 最初に舞台作品を作ったのが、僕の場合は大学での授業だったので、学生に「こんなことをやってみて」って何かを投げかけて、おもしろいものが出てきたらそれを構成してなんとか作品になったんですね。あくまで人間ありきというか。だから僕は何かを作ることになっても、役者を選べないんですよ。

岡田 : それ、聞いたことがあります。すごくいいなと思いましたね。高嶺さんは、すごくデモクラティックな人だと思うんですよ。いろんなものを同等に扱う、という意味でのデモクラティック。俳優との仕事の仕方とか、ものを作る感じとか、参加者をオーディションで選べないこととか、いろんな面でそれを感じます。

高嶺 : 基本的にはそうなんですけど、僕のやり方にはひとつ問題があります。舞台作品は音楽だと思って作っているんで、ひとつひとつの素材というか、音符にあたる部分を作ってる段階では、非常にデモクラティックな時間が流れています。ただ、その中でおもしろいと思えるものが溜まってきたら、どういう部分を切り取って構成するかというのは、僕の判断。ほかの人が口出しをする余地がなくなってしまう。それが、初演の3日ぐらい前に起こって、自分では気づいてないんですけど、ほかの人からしたら僕が豹変するらしいんですよ。

― 岡田さんも役者に具体的な指示を出すだけではなく、役者たちと一緒にリハーサルを進められているような印象です。

岡田 : 役者とのデモクラティックな関係に憧れているんですよ。高嶺さんとか、飴屋法水さんとか、具体的に考えるとなぜか美術寄りの人の名前ばかり浮かぶんですけれど。できるだけ具体的に、ここでこっちに動いて、こうやって話して、とかいうんじゃなくて、概念的な部分を聞いて、消化してほしいんですよ。こうやって動いて、って言ったとしても、概念的な部分を消化しないでそう動くだけでは意味がないので。

― 現在、おふたりとも発表を間近に控えた新作の制作を続けています。その着地点というのはどのように見えてくるのですか?

岡田 : とりあえず断片をいっぱい作って、続けているうちにそれによって何が作られるのかが見えてくる、というとカッコつけすぎですけど、でもそう思っています。自分の中でおもしろいと思える気持ち自体を信じているというか。そのうえで、断片をつなぎ合わせる構成を考えて、切ったり移動したりを繰り返すんですね。

高嶺 : そういう作業をするなかで、ここが中心点だな、って思えるような芯の部分が見えてきませんか? それが見えてきたら結構こっちのもので、その中心点の前後を考えて、バランスを取っていけばいい。

岡田 : そうですね、その原石感みたいなものをつかめたら、あとは磨き方を間違えて原石を無くしてしまうようなことさえしなければいい。あとは細かくリハーサルを重ねていくだけというか。リハーサルである場面をやって、「今の粗かったけど、ドーンとしたものがあったよね」「今はいろいろやってくれたけど、さっきのドーンがなくなっちゃったよね」というのだけを役者と一緒に理解できたら、もう大丈夫ですね。

高嶺 : 今回の展覧会では旧作と新作が同時に展示されるのですが、この規模の展覧会になると、一点一点をどう見せるかということよりも、「どう流れを作るか?」の方が大事になって、そうするとほとんど舞台の公演に似て来ます。じゃあ展覧会を見終わったあとにどういう感覚を持ってほしいかというと、ムズムズしてるけどちょっと幸せ、みたいな感じかな?そのために新作をどうしようか、考えているところです。