多田淳之介×岡田利規
多田淳之介×岡田利規

3月4日と5日に『ゾウガメのソニックライフ』を上演する富士見市民文化会館キラリ☆ふじみで芸術監督を務めるのは、東京デスロックを主宰する演出家の多田淳之介。役者に固定の役を与えて、それぞれが決められた役を演じることで物語を伝える形式だけが演劇なのか、という疑義が岡田利規との間に共有されている。本番も間近に迫った通し稽古の直後に、対談が行われた。

多田淳之介 (以下、多田) : いやあ、おもしろかったです。 このサイトの稽古場レポートを読ませてもらっていて、稽古の最初に、ひとりの役者が個人的なことを喋って、その隣の役者が同じことを喋って、それが誰の話なのかをどうやったら伝えられるか、という作業がおもしろいと思ってたんですね。そうしたら、今回の作品の最初のシーンからすごかった。情報量が多いというか、誰が喋っているのか、誰について喋ってるか、というのを探すことでも絶対にないけど、引きずり込まれてしまう。その状態が最後まで持続もされるし、形も変わるし、この前の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を拝見してましたが、あれからここまで来たのかと。立体感が半端じゃないと感じました。

岡田利規 (以下、岡田) : 「立体感」という表現をしてもらえて嬉しいです。それはまさしく今回目指したことですよ。

多田 : 今までのチェルフィッチュの作品だと、テキストと身体が舞台上にあって、舞台上でそのふたつの関係の中から何かが見えてくるという感じだったんでしたよね。でも今回は、言葉と身体の間に、別の役者の存在や舞台の空間が経由されている感じがして。だからこそ、テキストを使わないシーンの長さがすごく快適でした。

―東京デスロックの作品からも、役者が言葉を話さないシーンが長かったり、いわゆる従来のストレートプレイとは違う方法論が感じられます。

多田 : 僕の場合はテキストをほとんど書かないので、言葉の部分はリハーサルをしながら俳優に頼っている部分があります。最初にこういうことをやりたい、と伝えてから、役者に何ができるかを見せてもらいながら、役者との作業で作り上げていますね。

岡田 : 多田さんの作品を見ていると、あ、僕と同じ課題から演劇を考えてるな、ということが、わかりますよね。これってたぶんどのジャンル、どの世代にも、たいていあることだと思うんですけど、なにを克服しなきゃいけないのか、という共通の課題を持っている。それはまあ、前の世代の演劇をどう乗り越えるか、っていうことですけどね。

多田 : 今回の作品からも感じたのですけど、岡田さんは作と演出をされますけど、その両方をこれだけ分業されている作家さんってすごく珍しいと思います。言い方が変かも知れないけど、小説みたいだなって感じたんですね。小説は、読んだときの自分のイマジネーションを楽しむおもしろさがあって、ダメな演劇というのは、小説を読んだそのイマジネーションをそのまま舞台上に作ってしまったもの。そうではなく、テキストを読んだときに起きるイマジネーションを、舞台上に作ったものとお客さんの間に作る、という作業が行われるべきだと思うんですね、演劇というのは。岡田さんは作と演出を切り離しているから、両方をやりながらそれを実現できているんだと思います。

―多田さんは誰かの公演をご覧になるときに、劇場の芸術監督としての視点で見られることが多いですか?

多田 : いや、基本的にはあまり意識することはないですね。『ゾウガメのソニックライフ』は、キラリ☆ふじみで上演することが決まっていたので、そのことが頭の片隅にはありましたけど。この作品をうちの劇場のお客さんに見てもらえるのは嬉しいな、っていう。

岡田 : 多田さんは僕と違って、演劇のことを広く考えられて、頼もしいです。僕は自分のやりたい演劇についてしか考えられない。芸術監督なんて、絶対に務まらないと思います。

多田 : まあ、劇場側にアーティストがどこまで関わるか、というのは微妙な問題だとは思うんですけど。やっぱり、アーティストは作品を作っていればいいじゃん、っていうのもひとつの考え方ですから。ただ、なぜ芸術が必要で、公共ホールが必要なのかと考えるようになってそこに足を踏み入れてみると、地域との関係性をどうやって構築していくか、やりがいのある部分も大きいです。おもしろい作品を作れる場を作って、それを育てる観客がいて、という環境を作ろうとするわけですけど、ふじみの場合は街も小規模だし、住んでいる人に浸透するまでの距離が近いから、楽しめているのかもしれません。

岡田 : コミュニティと劇場の関係、ということですね。例えば、あるコミュニティと、そのコミュニティが受け継いできた芸能との関係というのがあるけれども、そういうこと想像するときの「コミュニティ」のイメージってなんか、単色のものじゃないですか。でも、コミュニティって壊れかけたり、その外側からいろんな異文化とか他者とかがやってきたりする、というほうがリアルな認識ですよね。そういう世界で生きていくための何かを得る機会となる場が、あったほうがいいんじゃないですかね。

―そこに芸術の存在意義があるということですね。

多田 : やはり、劇場のことを考えると芸術のことになりますよね。例えば、村に劇場が一軒あって、そこに行って舞台を見ることを楽しみにしてる人がおばあちゃん一人しかいないとします。そこで街の人が「だから劇場が必要だよね」と維持していたとしたら、極端な例ですけど、劇場が公共性を持った状態だと言えますよね。

岡田 : 去年公演を行った鳥取の「鳥の劇場」は、公共性という意味ではものすごく健全だと感じました。廃校になった小学校や幼稚園を劇場にして活動しているんですけどね、非常に筋が通ってるんですよ。演劇をやりたいというシンプルな欲求から活動が始まっているからなのかもしれませんね。個人の欲求って公共性を持ってないって思われちゃいがちだけど絶対違うと思うんですよ。むしろ筋を通すための根拠として不可欠なものだと思います。公共劇場でやってる演劇だから公共性を持つわけではなくて、演劇というのはそもそも公共のものだから、演劇を作りたかったり、見たいという欲求があって公共劇場が生まれていく。そうしたら自然と、地域の文化と密接につながった劇場になりますよね。KAATも出発点は鳥の劇場と違うんだけど、そうなったらいいなと、僕は思っているんですけれどもね。