岡田利規
岡田利規が語る新作での試み

ついに『ゾウガメのソニックライフ(以下、ゾウガメ)』の本番が幕を開けた。昨年の11月末からリハーサルを開始し、作・演出を務める岡田利規と、5名の役者たちとのやり取りが密に行われ、上演される『ゾウガメ』の輪郭が明確になった。そもそもスタート時に目指していたものがどのような演劇の形で、2か月のリハーサルを経てどのように形作られたのか。本番直前に話を聞いた。

―まず、前作『わたしたちは無傷の別人である(以下、無傷)』では、それ以前のチェルフィッチュ作品とは風合いが少し異なり、言葉の力を全面に押し出すストイックな演劇というような印象を受けました。『ゾウガメ』を作る際には、前作の方向性を推し進めようと考えたのでしょうか。

岡田利規 (以下、岡田) : それとは逆で、『無傷』よりも見る人に強いる度合いの少ないものを作りたい、という意志が最初にありました。『無傷』ではたしかに言葉の力に軸を置いて、“この言葉を言えば舞台上はこうやって見える”みたいなことを最初から徹底していましたから、今回はそういう風にあるひとつの方法論をひたすら使い続ける、いつでも一本背負い、みたいなことをやめて、もっといろんなことを試してみてもいいんじゃないか、という思いで制作を開始しました。潔癖症的な作り方じゃなくて、もっと適当さがあってもいいんじゃないかという。

―『無傷』での収穫はひとまず置いておいたわけですね。

岡田 : 『無傷』では、言葉の力によって演劇が観客の意識とか心の中で成立した、という大きな収穫がありました。あるひとつの言葉を言ったら、その役者が電車に乗ってる人に見えるとか、ビールを飲んでる人に見えるとか、細かい場面ごとのミクロなレベルでも言葉からイメージが浮かんで、もっと大枠として、主人公のカップルの姿が思い描かれる。『無傷』でその方法論を徹底したことがあまりにうまくいったので、このままだと行き詰るなと感じたんですね。

―では、新作を作るにあたって、まず何かイメージしたものがあったら教えてください。

岡田 : ロバート・ラウシェンバーグのコンバインですね。2年前に北米ツアーがあったんですけど、アメリカの美術館に行くと、ラウシェンバーグってたくさんあるんですよ。チェルフィッチュの演劇がときどき“キュビスティック”と評されることがあったんですけど、それを聞くにつけ、その先にいくとしたらそれってなんだろうなって思ってたんですよね。で、それってもしかしたらラウシェンバーグみたいなことなのかな? って漠然と思った。つまり、異質の素材を組み合わせるという感じのことですね。でもそれを演劇で行うって具体的にどういうことなのかは、まったく分からなかった。でも今回、やっと手掛かりがみつかって、それをやってみた感じです。

―異質の素材を組み合わせるイメージで、舞台上に複数のレイヤーを生み出そうと試みるようになったんですね。

岡田 : そうですね。5人の役者たちが、場面ごとに誰かがボリュームを下げることなく舞台上に存在し続けるにはどうしたらいいか、それを考えました。例えば、具体的に単純な部分で言えば、映像を使えばわかりやすくレイヤーを生み出せます。顔の動きを大映しにすることができるし、そこに映る役者とテキストを喋る役者、というレイヤーが簡単に生まれます。でも、それだけに限らず、ある人物の話を「引き受けて」別の役者が喋ることで、舞台上に同時に存在しながらもレイヤーを生み出せることが、リハーサルを続けるうちにわかってきました。

―舞台上での役者の位置関係や、動きによってもレイヤーが生まれている印象を受けます。

岡田 : 結局、レイヤーって何かっていうと、そのパフォーマーが舞台上である意識の状態をキープするうえで、その状態というのが何を条件にしているのか、その「何を」が異なるということが、レイヤーを異なるものにするんですね。そういう意味で、自分以外の体験や考えを「引き受ける」という意識で役者が喋らないと、レイヤーは生まれないんですよ。

―フレームを連想させる舞台美術も、レイヤーを生む役目を果たしているようですね。

岡田 : 例えば、今回の作品で「アパートが」って言ったときに、そのアパートがどこなのか、という問題がありますよね。フレームの奥にあるテーブルセットがそうなのか、それとも手前にあるボックスとイスがそうなのか、もしくは、舞台上で喋る役者が頭に思い描いている画がそうなのか、といったように重層性を作り上げられるのは、このセットだからできているわけです。そういう風にレイヤーを生み出すことで、役者ごとのマテリアリティを違う状態にできることが発見できたので、それはこれからも使っていきたいし、発展させてどういう風に物語が伝えられるか試していける、というのは大きな収穫ですね。

―そして、描かれるモチーフは、ひと組のカップルの「日常」への意見の食い違いです。

岡田 : 本を書くときには、舞台のことは全然意識しないで、僕が最近よく考えていることを書いただけ、っていえば書いただけで。構成とかもほとんど考えず、リハーサルで役者と作業をしながら作り上げたほうがいいと思っていて。ただ、なぜこれだけ当たり前の日常というものと、釈然としなさをまったく持たずに関わることができないのか、自分が疑問に感じていたそういうことをテーマにした、という感じでしょうか。

―「日常」を素直に受け入れるか、そこに抵抗感を持つか、『ゾウガメ』で描かれる人物の気持ちのせめぎ合いが描かれていて印象的です。

岡田 : この作品はいい意味で、矛盾をはらんでると思うんですよ。演劇を見る時間というのは日常から切り離された時間なので、日常を描いているといっても、日常から切断されたところで見るわけですよね。そこに矛盾があるわけで。でも、その矛盾があるからこそ、そういうことをやってもいい、という許可を自分が与えられている気持ちになれるんですね。さっきも言ったようにパフォーマンスにレイヤーを持たせようとしているわけですけど、パフォーマンスを豊かにして、この作品の体験をできるだけ強いものにしたいと考えているからそうするんですね。日常での体験とは違う体験をお客さんにさせて、でもそこで語られているのは日常で、日常について考えることになる。その矛盾をうまく扱えていれば、おもしろいパフォーマンスになると思っています。